道尾秀介「水の柩」中身はおんなしなんだよ(後編)

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道尾秀介さんの「水の柩」のレビュー記事の続きになります。

ここからの考察は全てネタバレとなりますので、ご注意ください。

考察

母親の存在感の薄さ

逸夫の母の珠子、敦子の母……え~と……名前すら出てこない(笑)どこかに名前出てきましたっけ?見つかりませんでした。シングルマザーで子供2人を育てるのは大変だと思いますが「ただ鈍感なだけ」で数年にわたるいじめに気付けない、う~ん…これはなかなか。両母親に共通しているのは「働いている」ということでしょうか?だからといって子供のことをおろそかにしていいことにはなりませんが、これは女性男性問わずですか。道尾さんが今作を通して「子育て」「子供ともっと向き合って」を伝えたかったとはあまり思いませんが、「親」の描き方からそんなことを感じました。

親と言えば逸夫と父、良介とのケンカの場面、勉強合宿と親を騙しタイムカプセルを掘りに行った逸夫を叱ります。良介の「どうして親に噓をついた」といくの「家族を恥ずかしがるなんて下衆の考えだよ。それが誰であっても」が妙に結びついているような気がします。良介はいくの過去で両親に噓をつかれていた、いくは過去を偽り自殺した父親を隠してきた、逸夫は良介を頼りないと思っていて、両親に勉強合宿と噓をついた、良介は出番が多くないこともあってか誰にも噓をついてはいませんが、両親と息子に噓をつかれ気持ちは穏やかではなかったと思われます。

そういえばいくも幼いころに火事で母を亡くしている、たづちゃんは父の暴力が原因で母一人のもと生活していた。この物語における「母」はどういった意味があったのだろうか。

逸夫はダムに何を落としたのか

敦子は「死のうと思っていた」自分を落とした

いくは「たづちゃんのことで自分を責める」自分を落とした

「人形じゃない、落ちていくのは自分」と言った逸夫がダムに落とした「自分」は何を表しているのか?「二人を生まれ変わらせるため、逸夫の人形に意味はない」とも考えられますが、それではどうも納得いかないので無理にでも考えました。

逸夫は「普通を嫌う」自分を落とした

というのはどうでしょうか?いじめられて「死のう」と決めた敦子、暗い過去を持ついく、に比べれば自分の「普通」がいかに恵まれているか逸夫にもわかったはずです。また頼りないと思っていた良介との親子ケンカで父を「絶対に敵わない存在ではなく」一人の人間として捉えるようになったことで、「父親のような普通の人生じゃつまらない」と思っていた自分を疑い「普通ってすごいことなんだ」と思うようになり、両親への感謝を意識した。旅館の経営も苦しいなか中学生まで育ててくれた両親のおかげで逸夫は自分を恵まれている「普通」と思えているのですから。もっと拡大解釈すると「子供である自分」を落とした、もいけますね。あのダムで逸夫は大人への一歩を踏み出したと。

あのタイミングで認知症になった意味

ダムに「たづちゃんのことで自分を責める」自分を落とした後にいくは認知症の症状が見られたようで、これは本当の自分の思いを認識できているうちにたづちゃんとも「お別れ」が出来た、と考えました。むしろ認知症の前にお別れができたのは幸せなことだと。なので「敦子は乗り越えた。しかしいくは乗り越える前に忘れてしまった」の一文がどうしてもわからない。いくも過去を乗り越えたのでは?と思います。

それと最後の最後ですよね、「敦子をたづちゃんと思い込み、抱きつき泣いた」これも難しいですね。敦子とたづちゃんに共通点はないはず(シングルマザーくらい)、いくが急にたづちゃんを思い出して年齢の近い敦子に重ね合わせた、ということでしょうか?ここでの「ごめんね」でやっとたづちゃんとお別れが出来たのか、認知症の症状で「人形を落とし、たづちゃんとお別れしたこと」さえも忘れてしまっていたのか、よく読んだつもりですが正直わかりませんでした。なぜ雨が降ってきたのか?逸夫の「小さいものが弾けとんでいく感覚、大きなものにぶつかってやりたい衝動」に歯を食いしばった?う~ん…わからん

「多々朗と史の役割」

大人たちのあまり出番がないなかで、この子供二人は出番が多かったような気がします。ストーリーにはそこまで深く関わってはいないものの、バスの中ではは必ず出てきますし、たびたび「バス落ちない?」と聞いてきます。バスが落ちるのは東野圭吾さんの「秘密」くらいか。二人の存在は逸夫と敦子の責任感の象徴のように思いました。いくの認知症が進行するとなるべく良介・珠子・逸夫の3人の誰かで多々朗の面倒を見る、これは逸夫の責任感の成長。妹を残して死を決意しダムへ向かった敦子が史を連れて逸夫と3人で足湯を掘ったのも成長と考えられます。歳が離れているのでケンカなどはしないと思いますが、普通の兄弟姉妹としてこれから育っていくのでしょう。

役割というもの違うかもしれませんが、いくが多々朗を逸夫だと思い込んで「跡取り」の話をしているのでこの時点でいくの認知症の症状はだいぶ進行しているものだと言えますし、そうなると最初からバス車内でのいくの発言も捉え方が変わってきますね。

「蓑虫って」

蓑虫と聞いて「キレイってどういう事?」って思いましたよね。「ミノムシ カラフル」「ミノムシ 折り紙」などで検索すると出てきます。繊維ならなんでもいいらしく、細かく切った折り紙などと一緒に箱に入れておくとカラフル蓑虫に本当になるそうです。印象的だったのは「中身はおんなしだよ。ただの、黒い芋虫」ですよね。これは「いくら着飾っても結局は中身」という意味かと思いましたが、いくの「何不自由なく生きていることが、恥ずかしくてね」が引っかかります。「自分には何の殻もない」ということか、では殻とは何か?これも責任感という言葉が当てはまるのかもしれません。責任ある女将として長年旅館を引っ張ってきたが今は退き、多々朗の世話をしている、やがて多々朗も大きくなり手がかからなくなる、その時自分には何の責任もなくなってしまう

また「辛いことがあったんだね」からの「何不自由なく生きていることが、恥ずかしくてね」として捉えるなら「悩みがあるって羨ましいね」という敦子への励ましも込められている、お互いのことは何も知らないはずだが、同じ歳の頃に辛い思いをしたいくには敦子の表情からそれを読み取ったのかもしれませんし、「逸夫が自分とこの子を誘ってここへ連れてきたということは、この子も辛いことがあったんだね」かもしれません。そうなるといくは逸夫が自分を励まそうとしていることに気付いていたんですね。そういえば人形をダムに投げ入れる前のこの段階でいくの口数も少しずつ増えています。孫が自分を励まそうとしてくれたことだけで、おばあちゃんとしてうれしかったのでしょう。敦子も逸夫がここまでしてくれることがうれしかったはずです。深読みしすぎかもしれませんが、そう考えると「人形をダムに投げ入れる」はどうでもよかった、逸夫の気持ちだけで二人は元気を取り戻していたのかもしれません。

「20年後二人はどうする?」

正確には20年後ではなくなりましたが、タイムカプセルを掘り起こす32歳の二人はどういった生活を送っていて、そもそもその掘り起こす現場に向かうのでしょうか?小さいものが土で、大きなものがタイムカプセル…う~ん…ないな(笑)

逸夫はその時現場にいると思います。逸夫にとって辛い思い出ではないですし、あの一件で「普通じゃない」日常に出会えて自分を含めて色々なことが変わった、きっと旅館も継いでいるでしょうから、その土地から離れてもいない。さらに敦子のためにも光景を見届ける責任を感じているはずです。

というのもおそらく敦子はタイムカプセルを掘り起こす現場には来ません。いじめっ子ばかりに会いにいくとは思えないし、何より敦子にとって辛い思い出であり、さらにすり替えた手紙は何の意味もないからです。「みんなと仲良くしていました」そんな噓の手紙を見ても悲しくなるだけです。もっと言えば敦子はもうこの土地にいないと思います。どこかのタイミングで都会に出て逸夫とは別の人生を歩んでいるのでは?歳の離れた史を残して町を出るかは引っかかりますが、やはり敦子はこの町が好きではない。唯一良くしてくれた逸夫は旅館を継いでこの地にいるはずですから、この町を思い出し懐かしむ時だけ逸夫を頼って「帰ってくる」くらいでいい、この地に居続ける必要はない、と思うことでしょう。

逸夫にとってすり替えた手紙はどうでしょうか、20年後はおそらくこの世にいない祖母いくのことが書いてあります。「旅館を継ぐと言ったら、おばあちゃんは元気になる」しかし、いくは認知症で多々朗と逸夫の区別がついていない。「旅館継ぐよ」は言えたのか?その時いくからどんな言葉をかけられたのか、気になりますが答えは出ませんね。

と、もはや感想と考察の区別もないですが、長々と書いてきました。この辺にしておきましょう。道尾作品にしては地味で暗い今作ですが、前編後編とこんなにダラダラ「あの場面は~、ここで○○は~」と書けるくらい内容の濃い作品ですね。 ではまた

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